草月アートセンター

旧草月会館の落成後まもない1958年に、草月アートセンターは勅使河原宏をディレクターとして発足しました。
さまざまなジャンルの表現がその枠にとらわれずに自由に集まり、創造し、発表し、批評し合える場、アーティスト同士が交流できる場を目指して活動を開始。
この活動が最も画期的とされたのは、アーティストが自分自身で自作をプロデュースするというシステムで、これが商業主義の嵐から創造活動を守る上で非常に大きな役割を果たしました。

草月アートセンターの活動は、以下の3本の柱を主としています。

(1)60年代前半のジャズの研究的なコンサート「草月ミュージック・イン」
(2)現代音楽の新しい発表の場となった「草月コンテンポラリー・シリーズ」
(3)60年代後半に特に活発な動きを見せたアニメーションや映像の実験の場「草月シネマテーク」

相互交流もさかんに行われ、いくつものコラボレーションが実現したほか、アメリカの先端的な芸術が数多く紹介され、ジョン・ケージやデヴィッド・テュードアのイベントは「ジョン・ケージ・ショック」といわれるほどの衝撃を与え、オフ・ブロードウェイのミュージカル「6人を乗せた馬車」の斬新な舞台も大きな話題となりました。

草月アートセンターは舞台上での創作活動だけでなく、ポスターや機関誌「SACジャーナル」の制作・編集にも多くの若い才能を起用しました。
中心人物として秋山邦晴、粟津潔、飯島耕一、一柳慧、大岡信、杉浦康平、高橋悠治、武満徹、東野芳明、中原佑介、横尾忠則、和田誠などが挙げられます。

「ジョン・ケージとデヴィッド・テュードアのイベント」左よりジョン・ケージ、デヴィッド・テュードア、小野洋子、黛敏郎 1962年
「ローシェンバーグへの公開質問会」ローシェンバーグは、質問には一切答えず、黙々と舞台上で作品を制作する。1964年
草月シネマテークのプログラムとして開催された「アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル」のポスター
デザイン:細谷巌。1967年
マースカニングハム舞踊団来日公演。1964年

草月アートセンターの主な活動とそれに関わった人たち

1958年

「シネマ58」による亀井文夫記録映画特集、安部公房による「草月教養クラブ」などを開催。

1959年

島崎敏樹他の「L.S.Dの実験」、寺山修司、堂本正樹などによるモノローグ詩劇「鳥グループ」公演。「モダン・ジャズの会(仮称)」が三保敬太郎、武満徹、八木正生、植草甚一らで発足準備会。他にも園田高弘ピアノ演奏会、勅使河原宏監督の「ホゼイ・トレス」試写会、ミッシェル・タピエの講演とスライドの会などを開催。

1960年

「モダン・ジャズの会」が「エトセトラとジャズの会」と改称して本格的に活動、植草甚一、八木正生、武満徹、谷川俊太郎、山口勝弘などで6回の例会を行う。「草月ミュージック・イン」はこの年10回の企画。平岡精二、水島早苗、八木正生、宮間利之、杉浦良三、前田憲男、三保敬太郎、山屋清、原信夫、八城一夫、白木秀雄、大橋巨泉、渡辺貞夫、原田政長、サイラス・モズレーらが個々に、あるいはグループを率いて登場。「作曲家集団」は5回の発表、「林光個展」(岩城宏之、友竹正則)、「武満徹個展」(観世寿夫、林リリ子)「松平頼暁個展」(岩城宏之、峰岸壮一他)「岩城宏之個展」(観世寿夫・栄夫・静夫)「諸井誠個展」(ヨネヤマ・ママコ、秋山邦晴他)が実現する。また久里洋二、柳原良平、真鍋博による「アニメーション3人の会」もこの年から発表を開始。

1961年

「草月ミュージックイン」は年6回の公演、久保田二郎、武満徹、斉藤隆、水島早苗、三保敬太郎、宮沢昭、八城一夫、後藤芳子、小割まさ江、古谷充、八木正生、雪村いずみ、渡辺貞夫らが個人・グループで参加。「草月コンテンポラリーシリーズ」では高橋悠治ピアノリサイタルと一柳慧作品発表会、「作曲家集団」は「グループ・エキシビション1」(黛敏郎、芥川也寸志他)、「間宮芳生個展」(森正指揮、東混他)を開催。「草月シネマテーク」も活動を開始、勅使河原宏の「ホゼ-・トレス」、松本俊夫の「西陣」、クラインの「ブロードウェイ・バイ・ライト」、和田勉の作品を上映。他に、イアニス・クセナキスによる「実験音楽会」、土方巽演出による元藤燁子の「燁 Dance Recital」、武智鉄二作品発表会、「グループ音楽」第一回コンサート(小杉武久、水野修孝、塩見千枝子(現 塩見允枝子))が開催される。

1962年

「3人のアニメーション」発表会、SAC例会における勅使河原宏監督の「おとし穴」の試写、岩田宏、谷川俊太郎、清水浩二らによる人形劇団「ひとみ座」公演、ペーター・クーベルカ作品試写会、若松美黄、木村百合子、高橋悠治らによる「ダンス・アクティヴィティ1」などを開催。また「草月シネマテーク」は2回の開催を通して、チャプリン等創成期の喜劇映画などを上映。「草月ミュージックイン」は猪股猛、前田憲男、八木正生、宮沢昭らによって2度の企画を実施。「草月コンテンポラリーシリーズ」では「作曲家集団」として「三善晃個展」(松村禎三)を、また、テオ・レゾワルシュの「エクスペリメンタルマイム」、高橋悠治、一柳慧、オノ・ヨーコ、粟津潔、黛敏郎、小林健次らによって8回の公演を実施するが、この年最大の話題は、ジョン・ケージとデービッド・テュードアによるイベント。東京文化会館、京都会館、大阪御堂会館などを巡回し、草月ホールではオノ・ヨーコ、一柳慧、高橋悠治などとのコラボレーションも行われ、「ジョン・ケージ・ショック」と呼ばれるほどの反響を巻き起こした。

1963年

「バウハウスと今日の芸術」の講演と演奏が行われ、川添登、秋山邦晴、高橋悠治が出演。「アニメーション3人の会」が発表。「演奏家集団・New Direction」が活動を開始、芥川也寸志、高橋悠治、一柳慧、野口竜らが指揮者や演奏家として登場する。「草月ミュージックイン」は八木正生トリオで公演、土方巽ほかの「暗黒舞踏派」も出演、さらに内山綾子モダン・ダンス・リサイタル、小杉武久、刀根康尚による「Sweet16」も開かれている。

1964年

「草月シネマテーク」では大島渚作品上映など5回の企画実施。さらに「白南準作品発表会」、若杉弘指揮による「演奏家集団・New Direction」第5回演奏会、「具体詩展」、水田晴康演出の丹阿弥谷津子らによる「草月実験劇場」公演、「小野洋子さよなら演奏会」、「アニメーションフェスティバル」が実現。ほかに「人間座」による寺山修司作「吸血鬼の研究」公演、ニューディレクション弦楽4重奏団演奏会、「Collective Music」(一柳慧、武満徹、小杉武久、赤瀬川原平)などが催されたが、この年最大の呼びものはジーン・アードマン・グループによるミュージカルプレイ「6人を乗せた馬車」の開催と、11月に来日し、東京サンケイホール、神戸国際会館、大阪フェスティバルホールでの公演によりセンセーションを巻き起こした「マース・カニングハム・ダンス・カンパニー」。ジョン・ケージとD・テュードアの演奏会も開かれ、「ローシェンバーグへの公開質問会」も開催された。

1965年

「草月シネマテーク」は「日本映画の足跡」と題して2度開催、「アニメーション・フェスティバル65」も実現。さらに、テオ・レゾワルシュなどによる「マイム・フェスティバル」も開催される。

1966年

「草月シネマテーク」では「世界前衛映画祭」などを上映。河野典正、吉田謙吉、及川広信らによる「アルトー館」の公演、「人間座」による「吸血鬼の研究」の公演がもたれる。さらに「アンダーグラウンド・シネマ」「アニメーション・フェスティヴァル’66」も実現、「空間から環境へ」展ではアイ・オー、山口勝弘、粟津潔、塩見千枝子(現 塩見允枝子)らが、また「電子計算機構成による多体系空間の表現」と題した「バイオゴート・プロセス」では、大辻清司、神田昭夫、山口勝弘他が登場した。

1967年

「アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル」開催、「草月シネマテーク」は「アニメーションへの招待」開催、寺山修司の「天井桟敷」は年2回の公演を行う。この年第一回「草月実験映画祭」実施。

1968年

「草月シネマテーク」はヤクザ映画、怪奇と幻想を特集。黒川紀章、横尾忠則、粟津潔などによる「Expose1968」シンポジウム「なにかいってくれ いまさがす」も開催。石川晶、前田憲男他による「ジャズ・ロック・リラックス」、サトウ・サンペイ、筒井康隆、土屋耕一、西尾忠久らによる「映像・デザイン研究ー饒舌の映像」が開催、「フィルム・アート・フェスティヴァル東京’68」も実現する。

1969年

「スタン・ヴァンダービーク来日公演」、「草月シネマテーク」では溝口健二、ルイス・ブニュエル、アンドレ・キノの特集。「フィルム・アート・フェスティヴァル東京’69」がゲバによって急遽中止に。

1970年

「草月シネマテーク」が飯村隆彦、荒川修作、寺山修司、ジャン・リュック・ゴダール、チェコ、キューバを特集。

1971年

草月アートセンター解散。

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